浄土真宗本願寺 福岡教区

MENU

お寺を探す

肥後国は天文23年(1544)菊池氏滅亡の後、国衆割拠となった。
 豊臣秀吉が天正15年(1587)九州平定し、52人の肥後国衆は秀吉から所領を安堵され、肥後国領主となった佐々成政の与力とされた。性急に検地を進めた佐々成政に反発し、有力国衆の隈部親永が挙兵した。他の国衆も呼応して肥後国衆一揆が勃発する。秀吉は、小早川秀包を総大将に任じ、九州四国の大名を動員して鎮圧させる。
 坂本城主辺春親行は義弟和仁親実の田中城に入り、和仁三兄弟と共に兵千人で抵抗した。兵一万の秀吉軍に囲まれ、三十六日間籠城した。安国寺恵瓊に内通し、辺春親行は自身の切腹と引換に残る者の助命を嘆願した。小早川隆景が是を認め、辺春親行は切腹し、子は安国寺恵瓊に託され、田中城は落城した。佐々成政は失政の責で切腹となった。
 辺春親行の遺児、兄喜多村隠岐、弟五郎左衛門は、やがて安国寺恵瓊の家老となった。

 豊臣秀吉が天正20年(1592)高麗陣の折、肥前名護屋城への道中、植木新入境長田原に陣を張った際に、喜多村隠岐は行器百荷で歓待した。

 喜多村隠岐は瀬良式部(直方尾仲家祖)の次女を娶り此地に在した。

 関ヶ原合戦の後、安国寺恵瓊は討首となり、五郎左衛門は供し切腹した。その後、隠岐は剃髪し仏像を安置した。

 隠岐は浄心と号し、長田原に庵室を結び、元和6年(1620)遠賀川大洪水の被害視察に来た黒田長政に、木月村照安寺末庵を経て面会した。黒田長政の引合により西本願寺より寛永6年(1629)直末寺として寺号木仏許可を得た。
住所

〒822-0032
福岡県直方市下新入1672-1

TEL

0949-22-4565

FAX

0949-22-4568

Google map