光林寺遠賀組
- 納骨堂
- 駐車場
当山は文禄2(1593)年に教念師を開基とし、秩父國畠山重忠の末裔とある。元久2(1205)年北条義時に依り重忠と長男重保討たれる。是に遡ること建久6(1195)年、当時7歳の次男重秀を京都栂尾明恵上人の許に弟子入りさせて法名を恵空と称させた。
恵空は、武蔵國にて重忠父兄の討死を知り、承久4(1222)年栂尾を去って関東に移り、当時常陸國稲田に在住させていた親鸞聖人の真宗教義の布教を知り、願い出て門弟となり法名を証性と称する。数年後、一子証性が下野國棚倉にて堂宇を建て蓮生寺と名乗る。これにより8代宗恵師の弟宗律、蓮如上人の北陸巡教に随従し、後に石山本願寺に移る。織田信長の石山攻略まで4代仕え、顕如上人の退去と共に大坂を離れて山口県清末の留まる。天正末期、秀吉の中國討伐のとき山口を退き、文禄2年現在の地に堂宇を建立して桃渓山光林寺と称す。
尚現住職英昭は第13代目に当る。
恵空は、武蔵國にて重忠父兄の討死を知り、承久4(1222)年栂尾を去って関東に移り、当時常陸國稲田に在住させていた親鸞聖人の真宗教義の布教を知り、願い出て門弟となり法名を証性と称する。数年後、一子証性が下野國棚倉にて堂宇を建て蓮生寺と名乗る。これにより8代宗恵師の弟宗律、蓮如上人の北陸巡教に随従し、後に石山本願寺に移る。織田信長の石山攻略まで4代仕え、顕如上人の退去と共に大坂を離れて山口県清末の留まる。天正末期、秀吉の中國討伐のとき山口を退き、文禄2年現在の地に堂宇を建立して桃渓山光林寺と称す。
尚現住職英昭は第13代目に当る。
住所 |
〒809-0014 |
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アクセス情報 |
JR中間駅より徒歩15分 |
TEL |
093-245-1404 |
FAX |
093-245-1412 |
納骨堂 |
有り |
墓地 |
無し |
合同墓(合葬墓) |
無し |
駐車場 |
有り |
バリアフリー対応 |
無し |