品照寺上下組
- 合同墓
- 納骨堂
- 墓地
- 駐車場
◆品照寺の沿革
品照寺は朝倉市三奈木に所在し、戦国時代の天文年間(1532~1555)に理善によって開かれたとされ、江戸時代には三奈木黒田家とも強い繋がりがありました。
福岡藩初代藩主黒田長政は、黒田二十四騎の一人である黒田三左衛門一成に下座郡に一万二千石の所領を与え、一成は三奈木に居館を構えました。代々福岡藩の大老として明治期まで福岡藩を支え続けました。慶安2年(1649)三奈木黒田家2代当主一任は、品照寺の寺領及び屋敷を品照寺3世住職善海に宛がっています。また三奈木黒田家6代当主一誠は、『浄土三部経』を書写し品照寺7世住職了海に寄附しています。安永9年(1780)本堂が焼失しましたが、寛永7年(1795)には三奈木黒田家8代当主一庸より材木が寄附され、再建に至っています(現本堂)。このように品照寺は三奈木黒田家より手厚く庇護されました。
一方品照寺は、江戸から明治初期に於いて本願寺や福岡藩からの触書・布達や明治政府の太政官からの布告を下座郡内の各寺院に取り次ぐ触次寺院として、行政の一端を担うなど地方文化の中核をなす寺院であったことを物語っています。
また旧三奈木村の門徒の庄屋に伝わる文書には、「御開山聖人四百五拾年忌」の前年宝永8年(1711)2月23日に「お取りこし(報恩講を繰り上げて行う)」が営まれた記載があり、300年前より「お取りこし」が村の行事の一環として行われていました。江戸時代より組織された「講」は現在まで継承され、特に「尼講」は今でも年に7回営まれています。現在は門信徒会組織のもと、仏教婦人会活動(「尼講」も含む)や仏教壮年会による毎月1回の「例会法座」・年1回の「剪定奉仕作業」等が行われています。
◆駐車場は十分ございます。
◆納骨堂・合同墓(合葬墓)は、門信徒に限りご加入いただけます。詳細はお問い合わせください。墓地用地には空きがございません。
品照寺は朝倉市三奈木に所在し、戦国時代の天文年間(1532~1555)に理善によって開かれたとされ、江戸時代には三奈木黒田家とも強い繋がりがありました。
福岡藩初代藩主黒田長政は、黒田二十四騎の一人である黒田三左衛門一成に下座郡に一万二千石の所領を与え、一成は三奈木に居館を構えました。代々福岡藩の大老として明治期まで福岡藩を支え続けました。慶安2年(1649)三奈木黒田家2代当主一任は、品照寺の寺領及び屋敷を品照寺3世住職善海に宛がっています。また三奈木黒田家6代当主一誠は、『浄土三部経』を書写し品照寺7世住職了海に寄附しています。安永9年(1780)本堂が焼失しましたが、寛永7年(1795)には三奈木黒田家8代当主一庸より材木が寄附され、再建に至っています(現本堂)。このように品照寺は三奈木黒田家より手厚く庇護されました。
一方品照寺は、江戸から明治初期に於いて本願寺や福岡藩からの触書・布達や明治政府の太政官からの布告を下座郡内の各寺院に取り次ぐ触次寺院として、行政の一端を担うなど地方文化の中核をなす寺院であったことを物語っています。
また旧三奈木村の門徒の庄屋に伝わる文書には、「御開山聖人四百五拾年忌」の前年宝永8年(1711)2月23日に「お取りこし(報恩講を繰り上げて行う)」が営まれた記載があり、300年前より「お取りこし」が村の行事の一環として行われていました。江戸時代より組織された「講」は現在まで継承され、特に「尼講」は今でも年に7回営まれています。現在は門信徒会組織のもと、仏教婦人会活動(「尼講」も含む)や仏教壮年会による毎月1回の「例会法座」・年1回の「剪定奉仕作業」等が行われています。
◆駐車場は十分ございます。
◆納骨堂・合同墓(合葬墓)は、門信徒に限りご加入いただけます。詳細はお問い合わせください。墓地用地には空きがございません。
住所 |
〒838-0023 |
---|---|
アクセス情報 |
朝倉市あいのりタクシー矢野竹線(事前予約制)「札の辻」バス停すぐ |
TEL |
0946-22-3462 |
FAX |
0946-22-3675 |
納骨堂 |
有り |
墓地 |
有り |
合同墓(合葬墓) |
有り |
駐車場 |
有り |
バリアフリー対応 |
無し |
主な行事や活動 |
3月 春季彼岸法要 |
住職から一言 |
当寺には多くの古文書や典籍書画等が所蔵されており、文化財としての重要性からその大半の1201点が「三奈木品照寺文書」として朝倉市指定文化財になっています。その研究成果は『法喜山品照寺史―品照寺文書を読み解くー』(平成30年刊行)に編集され、文書伝道の一環として門信徒会からの支援を賜り、各研究機関をはじめ全品照寺門信徒のもとへ配布しました。 |