先だって往った方を思う(2024年12月)
笠 賢信 本願寺派布教使 福岡教区 福岡組 妙静寺
坊守の里が三重県津市ですので、近くの真宗高田派のご本山専修寺にお参りすることがよくあります。この専修寺の三代目に親鸞聖人の直弟子である顕智上人という方がおられました。
この顕智上人は絶対に船に乗らなかった人だそうです。一度船に乗って京都に向かう時、死ぬ思いをし、やっとの思いで京都についた時、親鸞聖人がそのことをたいそう心配してくださったそうです。そのことを申し訳ないと感じた顕智上人は、それからというもの、どんなことがあっても船に乗らなかったそうです。
船に乗ったほうが便利な、わずかな距離でも乗らない。まわりのみんな全員乗っても、一人だけ乗らない。
周りからは「そんなに船が怖いか」と笑われることもあったそうですが、「船に乗るのは怖くないんだ、船に乗って事故に遭って命を落とすのも怖くない、ただもし船で事故に遭って往生したとしたら、浄土で親鸞聖人にお会いした時『船で死にました』とは言いたくないんだ」と言っていたそうです。そんなことになったら心配してくださった聖人に申し訳ないということでしょう。
それはつまり常に先に往った人の願いを意識しながら暮らすということでしょう。
浄土真宗では倶会一処という言葉があります。先だって往かれた方々とまた会える世界、それが浄土という世界です。
我々の先人方も、また会えるのなら、その時に少しでもいい話ができるように、恥ずかしくない生き方をしようと思い、自らの人生を生きぬいてこられたと思います。
私も先日父とのお別れを経験させていただきました。晩年は寝たきりで、会話もままならない状態でありましたが、浄土に生まれ仏となった今、その父も阿弥陀様と共にこの私のもとにはたらいてくださっている。
それと同時に350年の長きにわたって妙静寺の歴史を支えてくださった歴代の住職、ご門徒方も常に私のもとにはたらいてくださっていると思う時、有難いと思うと同時に身の引き締まる思いです。
顕智上人がそうであったように、私も先だって往かれた方々の願いを意識しながら、この先もお念仏申す日暮しを送らせていただきたいことです。