心の色(2023年9月)
永寿 祥幸 本願寺派布教使 遠賀組 照円寺
皆さんの心は何色ですか?本来は純白なのに朱に交わってしまったがために赤く染まってしまいましたか?それとも縁によって様々に変化し自分では捉えられない色ですか?
さて、『正像末和讃』の「悲嘆述懐讃」には
罪業もとよりかたちなし
妄想顛倒のなせるなり
心性もとよりきよけれど
この世はまことのひとぞなき
(聖典註釈版P619)
とあります。このご和讃はその当時すでに世に知られていた
罪業もとより所有なし
妄想顛倒よりおこる
心性みなもときよければ
衆生すなはち仏なり
という和讃を、聖人がいらっしゃった当時の比叡山の状況を悲嘆述懐して読み替えられたものです。「心性みなもときよければ 衆生すなはち仏なり」とは衆生と仏、迷いと悟りに区別はないという意味です。迷いの存在である私の身の上から、果たしてそう言い切れるでしょうか。
心のはたらきを順を追って考えてみましょう。例えばリンゴとミカンとバナナがあったとします。まずそれらが果物という同じ属性を持つものの、それぞれ別々の物だということは認識できます。次に例えばリンゴには好感を、バナナには嫌悪感を、ミカンには特別な感情を持たないといった感性が生じます。そしてさらにリンゴには執着心(貪愛)を抱き誰に許しを得ないまま食べ、バナナには嫌悪感(瞋恚)を抱くあまりほっとくことができず、目の前から排除してしまうという行動を起こします。ですがそんなに嫌いなバナナであっても極限の飢餓状態になったなら、人の物を奪ってでも食べてしまう。それが私という存在であることを、幾度となく飢饉を経験された聖人はご存知だったのです。
『この世はまことのひとぞなき』とはご自身を含めたものであり、『衆生すなはち仏なり』とは決してならないのです。『衆生すなはち仏なり』は「生死即涅槃」とも表すことができます。「即」は「=」(イコール)なのでその前後を入れ替えても成立します。つまり「生死即涅槃は涅槃即生死」という理屈が成立します。但しこれは「即」を私の智慧で判断した場合の話です。聖人は正信偈に於いて『惑染凡夫信心発 証知生死即涅槃』と表されました。信心のないところに生死即涅槃は成立しません。「即」は如来様からもたらされたものであり、私に備わった智慧ではないのです。私の立場で生死(私の煩悩)と涅槃(仏のさとり)が同一とはいい得ず、どこまでも仏のさとりは私の煩悩を決して離れることがないことを、如来様が「そのまま救う」と喚びかけてくださっていると頂く他はないのです。
念仏者のことを分陀利華(白蓮華)と表します。白蓮華は泥水の中にあっても決して染まらない高貴な花とされますが、その色は私の心の色ではなく、煩悩の中に咲くお念仏の色なのです。