浄土からの呼び声
芳村 隆法 本願寺派布教使 御笠組 光蓮寺
人口の4分の1近くが、65歳以上の高齢者となった日本で、今年の夏、大変大きく取り上げられたニュースがありました。生きているはずのお年寄りが実は亡くなっており、家族もそのことを隠していたという事件に端を発して、所在がつかめない人も含めて、全国で同様のケースがあることが判りました。まさに長寿大国といわれるこの国の現実が浮き彫りにされたような出来事でした。
このことから知らされるのは、私たちが今まで当たり前に共有してきた、命に対する価値観、考え方が音をたてて崩れてきているということです。例えば、かつては企業の論理だった効率性、合理性などの考え方が、生活の中にまで浸透して、命までもが役に立つ・立たない、使える・使えないというものさしで測られるようになったといえないでしょうか。
何より痛ましいのは、命の繋がりの中にこの身を生きているという事実を見失い、みずからその関係を切り崩し、孤独のなかに身を置く生き方をつくり出してしまうことです。
「孤独」とは、単にひとりという意味ではありません。「孤立無援」などと言うように、たとえ家族と住んでいても、誰とも心を通わす相手がいない、誰も自分を気にかけてくれる人がいないということです。また「独」とは文字通り一人ぼっちで、苦しみ、悲しみや喜びを共にする相手がいないということです。
私たちはあらゆる命との関係を抜きに生きる事は出来ません。ですが、時にその関係を疎ましく思い、傷つけあう事さえあります。
同時に私たちには、自分では気づくことの出来ない、あらゆるものと共に生きたいという命の欲求があります。その事実に目覚めさせ、等しく迎えとりたいと願われ、建てられた世界を阿弥陀如来の浄土といいます。それは死んだ後の世界などではなく、今私の命の真っただ中に「あらゆる命との関係を回復せよ」「無上の命を生きる身となれ」と願い、働き続ける世界です。
私もまた、命の繋がりを見失い、欲望中心の世界を生きる一人ですが、南無阿弥陀仏のみ名を、阿弥陀如来の真実命の世界・浄土からの呼び声としていただきながら、ご縁ある方と共に歩んでいきたいと思います。
合 掌