自戒 年のはじめに
吉弘 了暁 本願寺派布教使 柳川組 長善寺
富士山には、古い噴火口の跡が、こぶのようになっている場所がありますが、右でしたか、左でしたか、どっちでしたかね」こんなことを尋ねることがあります。たいがい何人かの人は考え込んでくださるのですが、あるお寺で同じことを尋ねた時、即座に「見る場所で違います」と答えた人がおられました。
「見る場所で違う」当たり前のことと誰もが気づくことなのですが、私たちは、本当にそのことを踏まえて毎日を暮らしているのでしょうか。
「右に見える」これは事実です。「左に見える」これも事実です。でも、自分の知る事実だけにこだわって、違う意見を間違いと決めつけていくとき「見る場所で違う」という真実は失われています。その事実さえ見失っています。
いま、私たちの世の中には、そんなことがあふれていませんか。
家の中でのささいないさかい。政党間の大人げないけんか。国と国との悲惨な争い。規模は違っても、自分を正しいとし、相手を間違っていると決めつけ振り返らない。その時、そこにある多くの「いのち」の営み、人々の暮らし、必死のすがた、悲痛な声さえ、見えなくなり、聞こえなくしています。
「世の中安穏なれ」大切な言葉も、自分の正邪・善悪の殻にこだわったところで振りかざせば、悲惨な現実をつくりだします。昔も今も、人はその恐ろしさを背負っています。
よしあしの文字をもしらぬひとはみな
まことのこころなりけるを
善悪の字しりがほは
おほそらごとのかたちなり
親鸞さまが詠まれた和讃です。
善悪を我がものと振りかざすことの、愚かしさ、恐ろしさを詠われています。大切に、自身への戒めといたします。
合 掌